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Bird’s-eyes view and introspection

AUG 9, 2o21
Bird’s-eyes view and introspection

”俯瞰と内観” photo:Danmark

高いところはニガテなのですが、住まいはマンションの高階層だし、飛行機の揺れは怖いですが、離陸時や着陸時の風景は好きです。昨今はなかなか飛行機に乗って遠くへ行くことが出来ませんが、得意ではないのになぜ高いところに住んだり飛行機に乗るような仕事を選ぶのかと、ふと考えてました。

どうやら、高いところや遠いところから俯瞰することを無意識に選んでいるのかもしれない、至近距離だと全体像が見えないということを回避しようとしているのかもしれない、と最近感じています。昔からそういうところはあります。近すぎると一部分しか見えなくて、全体を把握出来ないことで情報が偏ってしまう気がするからです。それは、以前の仕事で空間を意識することに慣れていたことや、自分のデザインが日々の暮らしの空間で、どんな場所で使われても馴染んで欲しいという思考の癖もあったかもしれません。

俯瞰すると、いろんな視点を持てることからさらに疑問が生まれて、いろんな情報に触れる機会に恵まれます。至近距離で見ていたらわからないものに出会えたりします。そして、その「たくさんの情報」の中からどう取捨選択していくかは「内観」と関わってくると思うのです。日々自問自答し、本来の自分とたくさん会話をしていなければ、選んだ時にどんな感情を味わったのかを経験値に出来ないし、自分がどれがいいのかわからなくて選ぶことすら出来ないかもしれません。自問自答していても年齢を経る毎に変化もあります。以前味わったことのある嫌な感情だと触れたくないので、無意識に自分を守るために問うことから逃げている場合もあります。

でも、その嫌な感情の先まで勇気を持って行ってみると、そこに自分にとっての「これだったんだ」というものを見つけることが出来たりします。それが本来の自分が望んでいることです。嫌だと感じなければあぶり出されなかった本当の望みが見つかるというのは、化学反応があったからこそ生まれる成分のような、そんな感じです。そうやって、感情を味わうことは、どこが本来の自分なのかと位置確認が出来るセンサーのようなものなのかもしれないと思っています。

そうやって、感情を省みて「自分の本当の望み」に気がつくことって意外にありそうでないような気がします。気がつかないことは時として、自分を蔑ろしていることと同じだったりします。外側で起こっていることや、人の目や、精査するには足らない情報量で判断していると、自分がなにを感じているのかわからなくなります。本当になかなか、気が付けないんです。私もこの年齢になって改めて感じることがたくさんあります。幸い、私は自分が大事にしたいと思うことを仕事に昇華させることで、誰かを大事にすることに繋がっている部分もあるので、まだ完全ではないにしても少しずつ少しずつ、「自分を大事にすることで誰かを大事にする」ことが出来てきました。そしてそれは、自分を大事にすることが最初だということも再確認しています。ただ、それは自我と他我が同じである前提で、最初のペダルを踏むのが自分だというイメージ。誰かの為に最初に動くのが自分で、結果他者を巡って自分にとってもいい恩恵があるということだと思います。あとは身体が重いか軽いかでも判断出来ます。どんなに人から勧められたり、強制されたりしても、そのことを考えると身体が重くなるようなことは、きっと自分が望んでいないことだと判断します。それがかなりの少数派であってもです。

人は本来、楽しいとか嬉しいとか、常に幸せを感じることが本質だそうです。ただ、そうじゃないコントラストのある体験をすることが出来る唯一の場所が地球なんだとも言います。いいとか悪いとかではなく、あくまでも違いを体験するアトラクションだと考えると、私はもうたくさんコントラストは体験させてもらったので(笑)、人本来の楽しいとか嬉しいを選んで行きたい。アトリエでの賑やかなみんなの大笑いを聞く度に、そう感じます。




初めての海外の仕事で、合間にスウェーデンのストックホルムを訪れた時の写真。共に渡欧していたMちゃんとの2人旅は今も心に残る時間。たまたま入ったところが教会と墓地だったんだけれど、生きることと死ぬこととはどういうことなのか、昔から考える機会の多かった私には、とても居心地がいい場所でした。